北の改札を抜けた後、隣に見えた大きなホテル。煉瓦造りの建物は、重厚ながらも素朴な暖かみがあった。 この街一番の高級ホテルだと聞いていたそのホテルのラウンジ。 指定された時間より早く行ったボクの目に、一人無表情に座る人の姿が映る。 「兄さん…。」 ボクの呼びかけに顔を上げたその人は、一瞬だけ何とも言えない顔を見せた。 微笑もうとして失敗したような、泣きそうなのを堪えてるような。どちらだったのか、ボクには分からなかった。 案内されたのはこの地方の料理を食べさせてくれるという、メインレストランの個室だった。 一通りのメニューを選んで注文すると、あまり間を置かずに次々と料理が運ばれてくる。 「人の出入りがあると話も出来ないから、早めに運ばせてる。ゆっくり食えなくて悪いな。」 その言葉に頷いて、今日こうして会っている事の意味を思い出す。 久しぶりに再会した事を祝ってるわけではなく、話し合いの為に会ってるのだ、ボクらは。 ーあの半年前の出来事の。 食事を終え、兄さんはワインに合わせてチーズを頼んだ。ボクはお酒はもう飲めそうになかったのでデザートを注文する。 間を置かずにそれらが揃う。もうこの部屋には呼ばれない限り人は来ないだろう。 ようやく兄さんと話をできる。望んでいたはずの事だけど、急に体が緊張するのが分かった。 「アル。」 何ていって話を切り出すべきだろうかと悩んでいると、兄さんから声をかけられた。 俯いて考え込んでいたボクは、弾かれるように顔を上げる。 ほんの一瞬、ボクと兄さんの視線が合う。 「話の前にまずお前に謝らなくちゃいけない。あの時は…、すまなかった。」 その言葉に何と言って返していいのか分からなかった。 「あんな事になる前にお前から離れるべきだと思ってた。でも結局は一番酷い形で、アルの信頼を裏切っちまった。 何て言って謝ったって許される事じゃない。お前にはオレを断罪する権利がある。」 断罪。その言葉がやけに衝撃的で、ボクはコクリと唾を飲み込む。 「オレを好きなだけ殴れ。」 「そんなことできない。」 兄の言葉を咄嗟に拒否する。兄さんを殴った所で何も問題は解決しない。 「それでも殴れ。それでお前の気が晴れるとも思えないが、ケジメのひとつにはなる。」 「…ずるいよ。それで兄さんは気が済むかもしれないけど。」 「気が済むわけないさ。オレはお前に何をされても文句は言えない立場だ。」 「それがずるいって言うんだ。それじゃ全ての判断をボクに押しつけてるだけじゃないか。」 何だか少し腹がたって、ボクは兄さんを睨み付けた。そんなボクを兄さんは少し悲しげに、寂しげに見た。 「オレはお前の判断に従うしかない。憎んでいるだろう、あんな事をしたオレを。」 憎んでいるだろうと聞かれて、咄嗟に違うと言ってしまいそうになる。 だけど心情的にどうであれ、それを告げてしまうのは早いと思った。 まだボクは何も知らない。知る為に、気付くためにここまで来たのに。 答えられないボクを見て兄がどう思うのか。それを考えると胸がチクリと痛む。 黙り込んだボクに、兄さんがそれで当然だと言った。 「…オレが恐いだろう?」 ピクッっと体が反応するのを抑える事は出来なかった。平静を装っていたつもりだったけど、見抜かれていたのか。 そういえば再会してから兄がボクに近づく事はなかった。 ここのラウンジで会った後、レストランへ連れてきた時も一定の距離を保って。服が擦れ合う事すらなかった。 ボクの中の怯えに気付いていたんだ。 テーブルに向かい合わせに座っているボクら。兄からボクに手を伸ばす事も、ボクが近づくこともない。 こんな風に兄さんを遠くに感じる事なんて今までなかった。 距離なんてたった1m程度なのに、何て遠いんだろう。それをこんなにもどかしいと思ってる。 あんな事をあったけど、ボクにとって兄さんが大切な人だという気持ちは変わらない。 一緒にいることが当たり前で、離れて暮らすことなんて考えたこともなくて。 手を伸ばせばいつも触れられるくらいに傍にいた人。 顔を見て泣きたくなるくらい、誰よりも特別なのに。 どうして今はこんなにあの人を遠く感じてる。 それが何よりも悲しい。 「…そんな思いをさせて、すまない。」 兄の言葉に目線を上げる。ボクを見ていた兄はボクと目が合うと、視線を僅かに反らした。 「仕事上どうしてもお前はオレの傍にいる事になる。だけどもう二度とお前に触れたりしないから。」 そうじゃないんだと、咄嗟に思ったのはそんな言葉。触れたりしないだなんて、そんな事言って欲しくない。 でも今のボクには何も言えない。触れないでとも、…触れて欲しいとも。 視線ひとつまともに合わない、合わせられない。何てもどかしい二人の距離。 「オレが言いたかったのはこれだけだ。お前は…。」 「…ボクにはまだ分からない。自分自身がどうしたいのか、何を言いたいのかも。」 「そうか。」 沈黙がボクらの間に落ちた。壁にかけられたアンティーク調の柱時計の時を刻む音が室内に響く。 それは多分、時間にしたらそう長い時じゃなかったはずだけど、息苦しくて切なくて随分と長く感じた。 重い沈黙を破ったのは兄だった。そろそろ出ようかと促されて席を立つ。 キャッシャーを素通りする兄に慌てると、ここにはよく来るから纏めて支払うんだと言われた。 こんな事を自然と出来るようになったんだと、何だか変な気持ちになった。 「アル、ひとつだけ聞いても良いか。」 待ち合わせたラウンジで今度は別れる。手に持っていたコートを羽織りながら頷いた。 「どうして此処に来た。いや、それよりもどうしてオレの部下になったんだ。」 許せなくて詰りに来るなら、何も部下になる必要はない。軍に入る必要なんてどこにもない。 わざわざ自分を犯した人間の傍で働こうとする、その真意がエドワードにはどうしても分からなかった。 一歩置いた距離から自分を見るエドワードを真っ直ぐ見て、アルフォンスが答える。 「…知りたかったから。」 ボクの知らなかった、知ったつもりでいたあなたのことを。 そして掴めないでいるボク自身の気持ちを知るために、ここまで来たんだ。 そのままアルフォンスはその場を後にした。残されたエドワードは弟の後ろ姿を見送りながら立ち尽くす。 ねえ兄さん。ラウンジで会った時、本当は泣きたかったんじゃないの。 アルフォンスの疑問は彼の胸の中に仕舞われた。 |
H18.9.26
司令部に来て一月が過ぎた。 兄の補佐的な事は元々慣れていたので、仕事にもすぐに馴染む事が出来た。 北方司令部は前線でもあるから殺伐としているのかと思っていたが、前線である分、かえって普段はとても和やかだった。 もちろん国境線付近の監視の目は厳しかったが、普段から張りつめていたのでは神経が持たないという事らしい。 ここの人達は多少気が荒い人が多いけど意外に気さくで大らかな所もあって、新参者で若輩のボクを快く受け入れてくれた。 ただ一人、兄さんとの間に流れる微妙な空気だけは隠しようもなくて。 仕事自体はお互いそつなくこなせてると思う。表面上何らトラブルもない。 だけど完全に上司と部下としての会話しか話さないボクらの態度は、他の人の目には時に異様に映るらしい。 それはそうだろう、ボクらが兄弟だということはファミリーネームからも分かる。司令部中が知っている事だ。 それが冗談ひとつ言うでなく余所余所しく一歩退いた態度でいたら、訝しがるのも当然だと思う。 昔からこんな感じの兄弟なのかと聞かれた時には返事に困った。 (前は違った。笑い合って殴り合いの喧嘩もして、周りにからかわれるくらいに仲が良かったんだけど) そう言いそうになったけど、結局言えなくて。 「仕事場だからね。勝手が違って多少気を遣う所もあるんだよ。」 と答えるのが精一杯だった。相手が不思議そうにしながらも納得してくれて助かったけど。 あの時の言葉通り、兄は一切触れて来ない。 書類を渡す時でさえ、ボクの指にも触れないように気を付けているのが分かる。 こんな状態のままでは此処に来た意味がない。でもどうしたらいいのか分からない。このままだと堂々巡りだ。 余計な事なんて考えず感情と本能のままに動いてしまえば、ボクの本当の気持ちもハッキリするのかもしれないけど。 だけどその時ボクがどうなるのか、分からない気持ちが恐い。 本当に恐れているのは兄ではなく、自分自身でも掴めていないこの感情なのだと。 初めて、気付いた。 北の大地は秋冬が早い。来た時にだってすでに朝夕は涼しい風が吹いていたけど、最近はその気配が色濃くなってきた。 一応の仕度はしてきたけど、実際冬が来たら色々必要な物が出てきそうだ。 旅をしていた頃、この地方にも来た事はあったけど。当時ボクは寒さなんて分からない鎧の体だった。 取り戻してから体験した冬は、セントラルでのものだから。きっとこの辺りは想像以上に寒いのだろう。 日々少しずつ色を変えていく中庭の落葉樹を見ながらそんな事を考えていると、向こう側から歩いてくる兄の姿が見えた。 傍にいる時はそうでもないのに、姿が見えなくなると無意識に探してしまう。 自然と目があの人を追ってしまうのを知ったのはいつだったか。 遠くても人に囲まれていても、兄の姿はとても目立つ。景色にも埋もれる事がない。 まるでそこにだけ光が当たっているみたいに、すぐに分かってしまう。 そのままぼんやりと見ていたら、兄が何かに気付いたかのように振り向いた。やってきたのはブロディ少尉だった。 手を振りながら兄に近づいた少尉は、手にしていた封筒を指差してみせた。それに兄が何度か頷く。 話ながら並んで歩き出す二人。この執務室へ戻ってくるらしい。 ブロディ少尉と親しげに話す兄。その様子から彼に信頼を寄せている事が分かる。 その事に自分でも戸惑う程に焦燥感が募るのを感じた。 兄さんの隣にいるのが自分ではないというその現実。それに対してのこの苛立ち。これは紛れもなく嫉妬だ。 ー誰に。ブロディ少尉に。いや彼だけじゃない。兄さんの側にいる全ての人間に対しての嫉妬。 「そこ」はボクの場所だと、大きな声を上げて言ってしまいたい。 兄さんの隣にいるのはボクだ。ずっとそうして生きてきたんだ、二人だけで。 そうじゃなくなる日が来るなんて、あの日まで考えた事もなかった。 壊れることのない絆だと何の疑いもなく信じていたのに。 …やはり壊れてしまったのだろうか。あの瞬間、取り返しのつかないくらいに。 あの温かい時間はもう取り戻せないのだろうか。 そこまで考えてハッとする。 ボクは戻りたいと思ってるんだ。取り戻したいと。 傍にいたいって、そう思ってる。 そうだボクは。 ただ単に兄さんの側にいたかった。 全てのきっかけになったあの日の翌朝。目が覚めると兄さんの姿はなくて。 もう会えないかもしれないと、その事が何よりも嫌だと思った。 それがどういう気持ちからだったのか。今なら分かるような気がする。 このままじゃいけないからとか、そんなの全部自分を動かす為の言い訳で。 ただボクはー。ボク自身が離れたくなかったんだ。 こんな簡単な事に、今頃気付くなんて。 あの人を誰にも渡したくないって、そう思ってる。 誰よりも一番近くにいたい。それが、ボクの一番の願い。 その時やっと、自分でも気付いていなかったボクの中の真実を知った。 |
H18.10.7
少しだけ震えそうになる手で扉のドアを叩いた。 深夜というにはまだ早い時間。予告もなしに訊ねたボクを、驚いた顔で兄が見る。 話があるんだと伝えたら兄の顔が少しだけ強張った。だがそれは一瞬の事で、部屋に入るよう促される。 後ろで締められる扉の音に僅かに緊張したが、そのまま鍵のかかる音はしなかった。 不用心だよと言おうとして、それが兄の気遣いなのだと気付く。 いつでも逃げられるからと言っているのだ。密室ではないと。 そんな事を気遣われる関係になったことに、胸が痛んだ。 単身者用の宿舎は普通のアパートメントのような造りだが、士官用は少し違う。 棟割りや戸建てになっていて、多少は広くなっていた。 ボクも兄さんも部屋数はいらないからと、棟割りの3LDKの宿舎を選んでいる。 佐官にしては小さめの、でも一人暮らしには充分どころか持て余し気味の部屋。 造りも同じなので、見当を付けてさっさと居間へと向かった。家具付きの部屋だしボクの部屋とそう見た目は変わらない。 だけど全体的に殺風景で、寝泊まりだけに使っているという印象だった。 室内を見ていたら、キッチンに消えていた兄が戻ってきた。両手にマグカップを持っている。 差し出されたそれを受け取る。覚えのある随分と香りの良いコーヒー。もちろんミルクはなしだ。 兄一人の家にミルクを置いているとは思えない。こんな所は相変わらずだと思うと、おかしな気分になった。 普段入れないから、砂糖も置いてないんだと謝る兄に、構わないよと答える。 一口飲んでみたコーヒーはあのホテルで飲んだ物だった。あの日から、この北の大地に来てからもう一月が経った。 再会したあの日の事を思いだして俯き黙り込んだボクに、兄が静かに声をかける。 「何を話したい?アルが聞きたい事があるなら、全部答えるよ。」 兄の声色にボクは顔を上げた。そうだ、今日は全てを終わらせようと決意してここに来た。 こんな風にしてたって何も進まない。ボクは漸く口を開いた。 「どうしてあんな事をしたのか、ちゃんと理由を話して欲しいんだ。」 あの行為がどういう感情からのものだったのか、ボクは気付いている。だけど兄の口からは聞いてない。 兄が少し表情を歪めた。苦しそうに。 「それを聞いたら…、アルはもっと困るだろう?」 「それでも何も聞かないまま、勝手に理解してるつもりになってる方が嫌だよ。ちゃんと兄さんの気持ちを教えて欲しい。」 何でも答えてくれるって言ったよね?そう言うと、兄は困惑したように口元を手で覆う。 目線を反らし少しの間だけ考え込んでいた兄は、意を決したように手を膝の上で握り締めた。 「…欲しかったんだ、お前が。ずっと前から。」 聞いた事のないような掠れたような声。ボソリと呟くような淡々とした言葉だった。 「大事にしたかったし、幸せになって欲しかった。その為にはオレが傍にいちゃいけないと思ったよ。 その内限界がくるのは分かってたから。…いつかお前にあんな事しちまうって、分かってたはずなのに。」 ゆっくりと兄が視線を戻す。ボクを見る金色の目。自分の目と同じ色のはずなのに、どうしてこんなに綺麗だと思うんだろう。 ボクを見詰める兄さんから目を逸らせない。逸らしたくない。 「オレ、アルが好きだ。愛してる。だから無理矢理抱いてでもお前が欲しかった。 欲しかったのは、体だけじゃなかったのに。浅ましいよ。後悔する資格すらオレにはない。」 初めて兄の口から、家族としてではなく「愛してる」と言われた。その事実に血が一気に熱を持った気がする。 言葉が少しずつ体中に染みわたっていくようで、その感覚がとても心地よかった。恐れに固まっていた体が溶けていく。 知りたかった兄の気持ち。聞きたかったのは兄の真実。その事で兄がどれだけ悩み、苦しんだとしても。 「ボクの傍にいる事、辛かったでしょう?ごめんね、気付かなくて。」 ボクの言葉に、兄さんが驚いて目を見開いた。何で、と一度小さく呟く。 「何でお前が謝るんだ。酷い事したのはオレなんだぞ。アルが謝んなきゃいけない事なんてひとつもない!」 焦ったように、怒ったように、兄は声を荒げた。その兄にゆっくりと首を振る。 「兄さんをそんな風に追い詰めたのはボクだ。ずっと一緒にいたのに、兄さんの気持ちに気付きもしなかった。」 「追い詰めただなんてそんなわけあるか!そんなこと、気付かないのが普通だろう!?」 「違うよ。ボクは気付くべきだったんだ。自分自身も知らなかったとはいえ、同じ想いを抱えてたんだから。」 兄さんの気持ちにも、ボク自身の気持ちにも。もっと早くに気付くべきだった。 同じ、想い…?呆然と言葉を返す兄に、少しだけ微笑んでみせる。 「兄さんは浅ましいって言ったけど、人を好きになるってそういう事じゃないのかな。 きっと誰だって綺麗な気持ちだけじゃいられない。そういう事、最近になって分かってきた。」 まだボクが子供だった頃。誰かを好きになるという感情は、ただ楽しいだけのものだった。 母さんも兄さんも大好きで、ウィンリィも大好き。友達も学校の先生も好き。 それは温かくて優しくてこそばゆくて、いつだってボクを楽しい気分にさせてくれた。 ウィンリィをお嫁さんにするのはどっちだって競った時だって、二人して振られた後は何だかおかしくなって。 家に帰ってから兄さんと顔を見合わせて笑った。 でも兄さんとブロディ少尉が楽しそうに歩いているのを見た時、ボクの中に渦巻いた感情はとても激しくて。 これまで経験した事のない暗い思いを、その時初めて知った。 ただ隣を歩いていただけの人を、妬ましく思うなんて。浅ましいのはボクの方だ。 兄さんの隣にいるのは、いるべきなのはボクだと。そんな嫌らしい心を隠し持っていたのだと、あの時知った。 だからこそ気付く事が出来たボクの真実。 「他の何を失っても、兄さんを失うのは嫌だ。」 心からの想いを込めて、初めて打ち明けた。 |
H18.10.14
湧き上がったのは、それまでにも何度か抱いた事のある想い。 失いたくない、ただそれだけの、だからこそ強烈な想い。 旅をしていた頃何度も危険な目に遭った兄さん。死の危険の直面した時、ボクが願ったのは一つだけ。 あの時もし悪魔が現れ、お前の魂と引き替えに兄を助けてやろうと言われたら。ボクは躊躇わずに差し出していた。 兄以外の全ての人間の命と引き替えだと言われても、頷いていたに違いない。 目の前のこの人以上に大切な存在なんて、昔からいなかった。大好きだった母でさえ、兄以上の存在ではない。 そんな激しい感情をただ家族だから兄だからと、勘違いを続けて。結果、誰よりも大切な人を追い詰めた。 後悔なんて無駄だ。どれだけ悔やんだ所で過去には戻れない。やり直しはできない。 それならば今この時を、これからの未来を間違わないように。あなたを本当に失わないように。 「離れてた半年、ずっと苦しかった。今はこんなに傍にいるのに前よりも離れてるみたいで、もっと苦しい。」 司令部ではボクが直属の部下になるから、殆どの行動を兄と共にする。 でも常に距離を保ち、兄の体温を感じる事など一度もなかった。 会えなかった時よりももっと、兄が遠くにいるようで。何度も手を伸ばしかけ、結局怖くて触れられない日々。 こんな思いはもうたくさんだ。 「ボクは兄さんと一緒にいたいんだ。誰よりも一番近くに、いつだって触れられるくらい傍にいたい。」 呆然したままボクの言葉を聞いていた兄さんが、途方に暮れたような声を出す。 「だけど…、オレはお前にあんな事を…。」 「抵抗しなかったボクも悪い。」 それも真実だと思ったから、ボクはきっぱりと言った。 「最初は確かに呆然としていたよ。何が起こっているのか把握出来なかった。」 やっと取り戻した体は、極端に痩せ細っていて。リハビリには結構な時間がかかった。 そこから更に医局で働けるようになるまでの間、ずっと必死だったから。 そういう行為の事になんて、興味がいく余裕がまったくなかった。 だから兄が自分に対してしている事が何なのかだなんて、最初は理解出来てなかったんだ。 それでもその後、理解してからもボクは抵抗を忘れていた。 ボクを見る兄の苦しげな表情に。時々泣きそうに歪められる顔に。ボクを呼ぶ、聞いたことがない程切なげな声に。 金縛りにあったかのように、動けなかった。 「でもあれがどういう行為なのか気付いてからも抵抗しなかった。ー結局ボクは、嫌じゃなかったんだよ。」 ほんの少しでも嫌悪を感じていれば、兄を反射的に跳ね飛ばしていただろう。 普通に考えれば、同性の兄にあんな風に触れられたら、本能的に抵抗しているはずだ。 だけどボクはそうしなかった。呆然としていた時も、そうじゃなくなった時も。 それは自ら受け入れたと言っても言い過ぎじゃない。 でもそれをすぐには理解出来なかった。突然すぎた未知の行為を受け入れるには、幼すぎたと言ってもいい。 自身も知らない内に芽生えていた兄への家族として以外の感情。それはその当時あまりにも幼いもので。 自分が兄を受け入れたという事実を、ボク自身が信じられなかった。 何故嫌じゃないのかという事を、幼い恋心と結びつけることが出来なかった。 自覚するよりも前に無理矢理という形で繋がれた体。その事実が恐かった。 それでも、どんな事をされても。 あなたはボクにとって、ただ1人のー。 「好きだよ。」 愛する人、だから。 うまく言葉にする事が出来そうにないくらいに。あなたをこんなに愛してる。 今のこの気持ちを全て伝えられる自信なんてないけど。 黙ってボクの言葉を聞いていた兄。驚きの為か、目を見開いてボクを見ている。 その口が、一度微かに動くのをボクは見ていた。声にはならなかったけど確かに「アル」とボクの名を呼んだ。 だからボクは呆然としたままの兄さんに微笑んで見せた。今言った事を信じてほしくて。 兄は一瞬泣きそうに、嬉しそうに顔を歪めて。それから小さな声でボクに尋ねた。 「お前に…、触れても、いいか。」 聞き覚えのある台詞。それはボクらが体を取り戻した時にも聞かれた事だった。 取り戻せた事が夢みたいで、触れたら壊れて消えてしまいそうで恐いと、恐る恐るボクに伸ばされた手。 あの時、ボクの体は弱り切っていて。自分から手を伸ばす事が出来なかった。だけど今は違う。 ボクの方から手を伸ばし、躊躇いがちな兄の手を取る。その手を頬に擦りつけた。 この手だ。誰でもいいわけじゃない。ボクに必要な温もりはただひとつだけ。 こんなに愛しいと思える手も温もりも体温も、その存在全ても。あなたじゃなきゃ意味がない。 「…眉が下がってるよ。情けない顔してる。」 ボクの言葉に、兄が驚いたように顔をした。何だか可笑しくなって、泣きそうになって。ボクは微かに笑った。 「そんな泣きそうな顔、あんまり見せてくれた事なかったよね。」 旅をしていた頃。苦しい時辛い時、隠そうとする小さな背中。その強がる姿も愛しくて。 いつも前を見ていて欲しかった。ボクに向けてくれる太陽みたいな笑顔が好きだった。 あの頃からボクはずっと、こんなにも大切だって想ってたのに。 そっと兄の頬にかかる髪を梳く。サラリと手に優しい感触に涙が出そうになって。 込み上げてくる感情のままに、兄の額にキスをした。 唇から伝わる熱で、胸が焼けそうに熱い。触れているだけでボクの中がいっぱいになっていく。 どうしてこの人と離れて暮らせていられたんだろう。 あなたがいなかったあの半年間、ボクはどうやって生きてきたのかな。 過ぎてしまった今となっては、もう分からないけど。 名残惜しかったけどゆっくりと唇を離すと、呆然とボクを見る兄の顔があった。 「許してあげる。」 「え…。」 「兄さんの滅多に見れない情けない顔、たくさん見れたから。だから許してあげるよ。」 「アルフォンス…。」 触れたのが罪だったというのなら、受け入れた事も罪。兄さんが咎人だというのならボクも同罪だ。 「オレ、お前を好きでいて良いのか。傍にいても良いのか?」 許しを請うような兄の台詞。仕方のない兄さんだね、と軽く兄の頬をピタピタと叩いて笑いかける。 「傍にいたいって、ボクが先に言ったんだよ。それがボクの望みなんだ。ねえ兄さん、叶えてくれる?」 「…っ!!」 次の瞬間、ボクは兄さんの腕の中にいた。無言で強く抱き締められて、ボクも何も言えなくなる。 あの夜もこんな風に抱き締められたのだと、ふと思う。 全ての感情を受け入れたボクにはもう、兄さんに対する恐怖はなかった。 「ありがとう…。」 抱き締められたまま、兄が肩口で呟く。 顔を見せない兄の背中が微かに震えている事に、ボクは気付かない振りをしたまま。 望んでいた兄の温もりに包まれながら、その背を何度もさすっていた。 |
H18.10.20
暫くして、ボクらは二人して戸建ての官舎に移る事にした。 自分達から希望した以上、ある程度落ち着くまではこの北方司令部勤務のままだ。 ならばいずれはセントラルの家に戻るにしても、仮でもいい、改めて二人の帰る家を持ちたかった。 大体の荷造りを終えてようやく一息つく。大した荷物は持ってきてなかったのに、いつのまにか増えたりしている。 大半は本、それも二人分だ。新居の一部屋は完全に書庫として使う事になるだろう。広い家で良かった。 「この調子じゃ、セントラルの家に帰る頃には持って帰れない量になるかもな。」 「いずれは書庫を増やしても良いけど、分厚くて重いのが多いから1階にしたいね。部屋割り考え直さないと。」 殆ど使われる事のない客間2部屋の内ひとつを潰してもいいだろう。ウィンリィ用に1部屋残れば充分だ。 そういえば連絡先が変わる事も知らせないと、と思った時別の事も思いだした。 「ねえ兄さん。マスタング中将に改めてお礼したいし、色々報告も兼ねて連絡しようと思うんだけど。」 「あ?お礼ってなんだよ。そんなのすることないって。」 「駄目だよ、どれだけ心配かけたと思ってるの。この件に関してはお世話になりっぱなしなんだし。」 軽く睨むと、兄は口を尖らせた。子供みたいな仕草に思わず笑みが零れる。 「国家資格を取ってここに行きたいって言った時ね、君の思うようにやればいい。協力は惜しまないって言ってくれたんだ。 沢山我が侭聞いてもらって迷惑もかけてさ。どれだけ感謝しても足りないくらいだよ。」 そう言うと兄はそっぽを向いた。だけど気乗りしなそうな兄の方が本当は、ボクより将軍に感謝している事を知っている。 どうにも将軍に対してだけは向けられた好意を素直に取れないというか、反発してしまう。昔からそうだった。 それは兄が将軍を認め、ライバル視している事の現れだろう。良くも悪くもこの二人は似た所が多い。 意地を張る兄がおかしくて、ボクは何だか悪戯したい気分になった。 「それとも兄さんは、ボクとの事を言うのが嫌なの?…そうだよね。 実の弟とこんな事になっただなんて、事情を知ってる将軍にでも言い辛いんでしょ。」 俯いて言うと、兄が慌てたように振り返った。 「何言ってんだよ!オレはお前が好きだって、無能どころか世界中の人間の前でだって言えるぞ!オレはー。」 そこで兄の言葉がプッツリと切れる。俯いたまま堪えきれずに震える肩に気付かれたかもしれない。 「…アル、お前ー。オレをからかったな?何てヤツだ!!」 「わー、兄さんごめん!まさかそんなにマジに返してくるとは…、だから許してってば!」 首に手をかけ絞め技のジェスチャーで体を大きく揺すられて、降参するように手を挙げる。 謝りながら笑い続けるボクを兄さんが見て、それから自分も笑い出した。 向かい合ったままお互いの顔を見ては笑ってしまう。それがおかしくて楽しくて、とても嬉しかった。 こんな風に穏やかに暮らせるようになったのも、協力してくれた人達のおかげだ。 「どんな形であれ、ボクらが落ち着いたって聞けばきっと喜んでくれるよ。」 にっこり笑いながら言うと、兄はまあ仕方ないかと呟いた。 「確かに年寄りに心配かけちゃいけないよな。」 「もう。そんな事ばっかり言って。」 まだ将軍に対しては憎まれ口を崩さない兄に苦笑する。 ボクらはお互いを取り戻せたんだ。前よりももっと確かな形で。 手遅れにならなくて本当に良かったと思う。だってこの人を失ってたらどうなってたのか、自分でも想像できない。 ボクを背中から抱き締めた兄さんの温もりに全身を預けて、その腕に手をそえるとそっと目を閉じた。 何があってもあなたを失わないように、この手をいつも掴んでいよう。そう心に決めながら。 |
H18.10.25